Heartful Canvas(前)


「はい。それじゃあ、値段表やタイトル一覧などは僕の方で用意しますので。はい、ええ…前回と同じような形で」
 台所でゴボゴボとコーヒーメーカーが音を立てている。コーヒーを入れ終わったらしい。僕は椅子から立ち上がると、携帯電話を左手に持ち替えながら台所へと向かった。
「ダイレクトメール…案内はがきですね。ええと、前回は何枚くらい頂きましたっけ…300枚。じゃあ今回は400枚頂けますか。少し広告の魔の手を遠くまで伸ばしてみようと思いまして」
 電話の向こうで、画廊のオーナーが「そりゃあ魔の手だわ」と笑った。僕も笑いながら、戸棚にしまってある愛用のコーヒーカップを取り出す。高校生の頃から使っている、白くて柄のないカップだ。僕はオーナーの話に相槌を打ちながら、カップにコーヒーを注いだ。
「はい。じゃあ、搬入日は16日ということで…。ええ、午後3時頃に伺います。車です。はい…いえ、こちらこそよろしくお願いします。それでは、失礼します」
 そう言って電話を切ると、僕はふうっと息を吐き出した。どちらかといえば他人と話をするのがあまり得意でない僕にとって、電話というものはなんとも骨の折れる作業である。
 しかし1ヵ月後に控えた個展の準備ともなれば、苦手などとも言っていられない。電子メールのやり取りだけでは心もとないし、何よりも時間がかかる。僕は日に一度くらいしかメールをチェックしないのだから。
 僕は開け放してある窓の縁に腰を下ろすと、湯気の立ち上るコーヒーを少し、口に含んだ。ほろ苦い味が口の中に広がる。砂糖やミルクは入れない主義だ。カップから口を離さずに二口目を飲むと、僕はもう一度大きく息を吐き出した。
  "画家"と言えば聞こえは良いが、本当に絵だけで生計を立てられる人間などほんの一握りである。仕事のかたわら絵を描いている画家も珍しくはなく、僕もその内の1人だった。ただし僕の場合、仕事といっても飲食店のアルバイトであり、"画家"と名乗ってはいるものの、言ってしまえば体の良いフリーターだ。何しろ、今まで2度個展を行い、売れた絵は1枚。買ってくれたのは僕の師匠の知り合い。少なくとも僕は画家ほど割に合わない職業はそうあるものではないと思っている。
 そんな僕が、どうして絵を描くことをやめないのか。どうして"割に合わない"画家を続けているのか。僕の現状を聞き、そう思う人も多いだろう。それには、中学生の頃に出会ったある人が深く関わっている。
 透き通るような冬の青空を見上げ、僕はこの同じ空の下で生きているであろうその人に思いを馳せる。
 松野桐子。
 君は今、どこで何をしているのだろうか。


 まだ中学生だった頃、僕には好きな女の子がいた。
 初めて彼女の姿を目にしたのは、中学校1年生の夏。当時僕は文芸部に所属していた。僕の中学校の文芸部は、"文芸部"とは名ばかりの堕落しきった部活で、活動内容といえば、雑談、昼寝、漫画を読む、そしてこっそり持ち込んだTVゲームをするなど、およそ"文芸"とは程遠いことばかりだった。そして僕もその例に漏れず、熱中できることもないまま、まるで魂のない抜け殻のように、毎日を過ごしていた。
 その日も僕は、授業が終わってから部室へ行き、そこで昼寝をして過ごした。目を覚ますと午後5時30分。部室には僕のほかに誰もおらず、代わりに「先に帰る、鍵よろしく」と書かれた紙が、部室の鍵と一緒に机の上に置かれているだけだった。眠りにつく前は僕の他に3人の部員がいたはずだが、誰も「高原を起こしていこうぜ」と提案しなかったのだろうか。友達甲斐のない連中だなどと思いながら、僕は鍵を掴んで部室を出た。
 部室の鍵は、毎日必ず職員室に返さなければならない。その役目を強制的に押し付けられた僕は、膨れっ面で部室のドアに鍵をかけた。職員室へ行くのが好きな学生はあまりいないだろう。僕も苦手だったし、他の部員達も得意ではなかった。だからこそ僕を起こさなかったのかと気付き、僕は部室についてすぐに昼寝を始めたことを後悔した。
 僕は1人、誰もいない廊下を歩いた。窓からはオレンジ色の光が射し込んでおり、教室にも人の気配はない。この時間まで学校に残っているのは運動部の連中くらいで、文化系の部活の生徒はほとんど帰宅している。もっと盛んな部活動のある学校はそうでもないのかもしれないが、僕の学校にそのような部活はない。吹奏楽部も、美術部も、演劇部も、すべて平凡かそれ以下。5時半を回っても練習しようという活気のある部活ではなかった。それを批判する権利など僕にはなかったし、また批判するつもりもなかったが。
 今日は家に帰ったら何をしよう、などと考えながら美術室の横を通りかかった時、僕は美術室の中で誰かが絵を描いていることに気が付いた。こんな時間になるまで熱心に絵を描いている美術部員もいたのかと好奇心に駆られた僕は、入り口の壁に隠れるようにして部屋の中の様子を窺った。
 絵を描いているのは、女子だった。窓際にイーゼルを立てて、時々窓の外を眺めながら、真剣な表情でキャンバスに筆を走らせている。夕陽に照らされたその真剣な表情が妙に印象的で、僕はしばらくの間、そのまま彼女の絵を描く姿を眺めていた。
 その時僕は、人が見ているのにも気付かずに夢中でキャンバスに向かう彼女の中に、自分にはないものを感じていたのかもしれない。これといって熱中しているものもなく、"文芸部"とは名ばかりの暇をもてあます集団の中にいた抜け殻のような僕とは違う。他の部員が1人残らず帰ってもなお筆を置こうとはしない彼女に、一種の憧れのようなものを感じていたのだろう。
 僕とて、このまま無気力に時を過ごしていたいわけではなかった。夢中になれるものを見つけ、何かに情熱を注いで生きてみたかった。しかしその"何か"が見つからなかった。そのくせ自分から何かを始めてみようとはせず、「また明日」「その内きっかけがあるだろう」などと現在の生活に甘んじ、"一生懸命になること"から目を背けていた。自分と向き合う勇気すらない少年、それが中学生の頃の僕だった。だからこそあの日、僕は彼女の姿に惹かれたのだと思う。
 それからというもの、僕は週に1〜2回は遅くまで部室に残り、そして美術室を覗いてから帰った。
 ほとんどの場合、僕は熱心にキャンバスへ向かう彼女の姿を見ることができた。僕がいることには気付かずに窓の外とキャンバスを交互に見比べながら、時々難しそうな顔をしたり、少し笑ったりする彼女を見ている間だけ、僕は自分の生活の空しさを忘れることができた。まるで彼女と時間を共有しているかのように。
 そして僕はいつの間にか、学年もクラスも、名前すら知らない彼女に恋をしていた。

 彼女の名前を知ったのは、2年生に上がり、同じクラスになってからだ。
 松野桐子。
 その名前を持つ少女が僕の人生の転機を作るなど、当時の僕はもちろん予想だにしていなかった。僕が感じたのは、憧れの人と同じクラスになったという喜びだけだ。
 しかし僕は彼女に話しかけられなかった。元々内向的な性格だったし、何より「1年生の頃から、美術室に居残って絵を描いている君をこっそりと見てました」などと言える筈もない。隠していたところで、いつかはボロが出るに決まっている。そう思うことで、彼女に話しかけられないでいる自分を正当化していた。そして僕は、一生懸命な彼女の姿を見ていればそれで充分だと、どちらかといえば後ろ向きな結論を出していた。
 そんな僕が初めて松野さんと話をしたのは、2年生になってから2週間ほど経ったある日のことだった。
 その日も僕は、いつもと同じように午後5時半過ぎ、部室を後にして美術室へ向かった。いつもと同じように松野さんは、僕がいることに気付かずに絵を描いている。もう半年くらいずっと通っているのによく気付かれないな、などと思いながら彼女を眺めていた時だった。
「おい、そこの。早く帰れよ」
 突然、野太い男性の声が廊下に響き渡った。ぎくりと身を強張らせて声のした方向を見ると、体育の林田先生が僕の方を見ていた。僕が気付くと、林田先生はもう一度「早く帰れよ」と言って階段を下っていった。たったそれだけだったが、僕は林田先生を恨んだ。
「高原君?」
 美術室の中から、松野さんの声が聞こえてくる。そら見ろ、と僕は思った。林田先生の声は大きい。体育の教師なのだから、当たり前といえば当たり前だ。そしていかに松野さんが集中していようとも、林田先生の大きな声が廊下に響けば気付かないはずはない。廊下の方を向いた松野さんが目にしたのは、入り口の向こうで首をすくめている僕の姿だったというわけだ。
「や、やあ」
 ここで逃げるのもおかしな話だと思った僕は、観念して松野さんに向かって軽く手を上げた。好きな人と初めて言葉を交わすことができたのに少しがっかりしているのは、僕が松野さんの真剣な表情を眺めている時間を、大切に思っていたからだろう。
「話したことないのに、名前覚えててくれたんだ」
「うん、一応クラスのみんなのはね」
 そう言って松野さんは体を大きく伸ばすと、時計を見て「もうこんな時間か」と呟いた。
「高原君、部活?」
「まあね」
 嘘ではないが、部活の内容が内容なだけに、少し後ろめたい。
「あのさ。松野さんって、いつも1人で残って絵を描いてるよね」
「えっ、知ってたの?」
 しまった、と思った。話題を変えようとしたのは良いが、隠そうとしていたことをつい口に出してしまった。"いつかはボロが出る"と僕は自分をけなしたが、それがここまで早いとは思いもしなかった。
「いや…僕も時々このくらいの時間まで学校にいるんだけど、美術室の前を通るといつも松野さんが中にいたから」
「やだ、それだったら声をかけてくれればいいのに」
「一度も話したことのない男子に声をかけられるのも、嫌かなと思って」
「そんなことないよ。ひとりでこうして絵を描いてるのって、結構寂しいんだから」
 そう言って松野さんは笑った。僕もほっとして、彼女に微笑みを返す。どうやらあまり悪い印象は与えていないらしい。
「ねえ松野さん。絵、見せてもらってもいい?」
 僕は美術室の中に入る素振りを見せながら、松野さんに言った。この時の僕は自分でも驚くほどに積極的だったが、それはこの機を逃すと松野さんと仲良くなることはできないと思っていたからだ。神様が内気な僕に与えてくれた、大きなチャンス。なけなしの勇気を振り絞って出た結果が良かったのか悪かったのか、僕にはわからない。ただ、この決断のもたらした結果が僕の人生におけるひとつの転機となったことは間違いないと思う。
「いいよ。あまり上手じゃないけど」
 松野さんは少し照れくさそうに、僕を美術室へ迎え入れた。僕は「やった」と言いながら松野さんの方に駆け寄り、彼女は「あんまり期待しないでよ」と苦笑いを浮かべる。そのやり取りだけで、僕は幸せだった。
 松野さんの横に立ち、キャンバスを覗き込む。
 彼女の作り上げた世界が、そこにはあった。
 絵は、彼女のすぐ脇の窓から見える風景を描いたものだ。しかしそこには、実際の風景とは違う、絵でしか表現することのできない"松野桐子の世界"が描き出されていた。風景の最奥には町並みに沈みかけた夕陽が大きく描かれており、辺り一面をオレンジ色に染めている。キャンバスの下半分に描かれた校庭には練習に励む野球部員たちの姿が見え、彼らの威勢の良い掛け声が今にも聞こえてきそうだった。学校の敷地のすぐ隣にある建物は、校庭の半分ほどに黒い影を落としており、夕陽のオレンジ色とのコントラストが美しい。野球部員たちを見守るように風に吹かれながら立っている杉の木、まるで触ることのできそうな雲。どこをとっても、絵画というものに触れたことのない僕にとっては新鮮だった。
「すごい」と、僕は夢中で言った。「綺麗な絵だね」
「ありがとう」
 松野さんは嬉しそうに言ったようだが、僕はそんな彼女の言葉も耳に入らないほど、絵に見入っていた。もっとも言葉よりもそんな態度の方が、僕の感動はよく伝わったと思う。松野さんの絵は、少なくとも僕にとってそれほどに魅力的なものだった。
「小さい頃からずっと絵を描いてるの?」
「うん。いつだったか忘れちゃったけど、小さい頃にお父さんの知り合いの画家さんの絵を見せてもらってね。ひと目で気に入っちゃったの。それで、私もこんな風に絵が描けたらなあって思って、絵を習い始めたんだ。それからずっと今まで、絵を描き続けているわけです」
 松野さんの目は生き生きとしていた。これが、自分の好きなことを人に話す時の目なのかと思うと、僕はそんな目ができる松野さんが羨ましくなる。彼女は「あんまり上達しないけどね」と言って、少し照れくさそうに笑っていた。
「僕はすごく上手だと思う」
 松野さんの言葉に対して首を横に振りながら、僕は言った。 「松野さんが、その画家さんの絵を見て"自分もこんな風に描けたら"って思ったのと同じように、僕も松野さんみたいに絵を描けたらって思う」
「本当?」
「本当だよ」
 問われるまでもなく本心だ。僕には絵のことなどほとんどわからないが、もしも松野さんが描いたこの絵のように、僕自身の日常を、そしてこの世界を見ることができたなら、どんなに素晴らしいことだろうと思う。きっと喜びに満ち溢れた日々が待っているに違いない。
 そして、そんな日々への憧れが、言葉となって僕の口をついて出たのかもしれない。
「…絵、僕にも描けるかな」
 呟くような小さな声だったと思う。しかし松野さんは聞き逃さなかった。
「もちろん」と彼女は顔を輝かせる。「興味ある?」
 僕は小さく頷いた。松野さんのこの絵を見れば、僕のような美術に疎い人間でも、多かれ少なかれ絵画に興味を持つのではないだろうか。
「それじゃあ高原君も絵を描いてみなよ。まずは鉛筆でいいから」
「でも僕、下手だし…」
「そんなの関係ないって。最初は誰だって下手なんだから。ね、一緒に描こうよ」
 松野さんならば、始めたての頃から上手でも不思議ではない。とにかく僕は、彼女の「一緒に描こう」という言葉に心を動かされた。憧れの人に一緒に何かをしようと誘われれば、断る理由はないと思う。この時は恐らく、絵を描いてみたいという好奇心ももちろんあったが、それ以上に松野さんと2人でいる時間ができるかもしれないという嬉しさが、僕を動かしたのだろう。
「じゃあ、やってみようかな」
 僕がそう言った瞬間、松野さんは嬉しそうに「やったね」と笑顔を浮かべた。彼女からすればひとりで絵を描くのが寂しかっただけであり、一緒にいる人は誰でも良かったのだろうが、松野さんと2人で何かをすることができるという事実だけで、僕は満足だった。
「何を描けばいいかな」
「何でもいいよ…それじゃ、私を描いてよ」
「松野さんを?」
 目を丸くする僕に、松野さんは「そうよ」と頷いてみせた。生まれて初めて授業以外の時間に描く絵が好きな人の肖像画で、それも本人の前で描かなければならないなど、少しハードルが高過ぎるのではないだろうか。
「物は試しよ。ほら、描いてみて」
 まるで僕の反応を楽しむようにそう言うと、松野さんは鞄の中からスケッチブックと鉛筆を取り出して僕に手渡した。「まずは描け、話はそれからだ」とでも言いたそうな彼女のその行動に、僕は「絵を描いてみたい」と言ったことを少し後悔していた。
 結局その日、僕と松野さんはそれから1時間近く美術室に残っていた。再度見回りに来た林田先生に叱られるまで、時が経つのも忘れて、僕たちは絵を描き続けていた。


 僕は部屋の押入れを開けた。衣類や画材が無造作に放り込まれている。どちらかといえば、整理整頓は得意でない。
 押入れの奥からガムテープで封をされた段ボール箱を取り出すと、僕はガムテープを剥がし、箱の蓋を開けた。箱の中にはスケッチブックがぎっしりと詰め込まれている。僕はその中のいちばん左端にあるスケッチブックを取り出し、パラパラとページをめくった。
 そこに描かれている絵は、僕の画風とよく似ているが、僕の描いたものではない。むしろ僕の画風が、この絵の作者に似ているのだ。そう、松野さんの画風に。
 そのスケッチブックは、あの日僕が松野さんの肖像画を描いたスケッチブックだった。彼女は「家に帰れば予備のがあるから」と言って、このスケッチブックを僕にくれたのだ。半分近くのページは松野さんが描いた絵で埋まっていたが、彼女の絵を見るのが大好きな僕にとって、それはむしろありがたいことだった。暇 があればスケッチブックに描かれた絵を眺め、そして学校では、松野さんから直接絵の描き方を教えてもらう。松野さんは僕の師匠のような存在でもあったのだから、画風が似ていても不思議ではない。
 ページをめくると、突然デッサンの狂った肖像画が現れた。あの日僕が描いた、松野さんの肖像画だ。お世辞にも上手とはいえない。顔の各パーツの大きさのバランスが取れていないし、実際の松野さんとは似ても似つかない。
 完成したこの絵を見て、松野さんは腹を抱えて1分間ほど笑い続けていたものだ。そんな彼女を見返してやろうと思って、暇を見つけては絵の練習をするようになったのだから、ある意味ではこの絵が僕を絵画の世界へ導いたのだと言える。
 それにしても、あまりに下手だ。
 僕は少し冷めたコーヒーを飲み、改めて絵を眺めた。コーヒーが少し苦く感じる。こんな絵しか描けなかった人間が、よく画家になれたものだ。
 しかし、今思えば僕は絵を描くことに適性があったのかもしれない。
 人は自分の持つエネルギーを何らかの形で外へ出す。その方法は人によって色々だが、僕はそれを"言葉"とか"行動"で表出するのがあまり得意ではない。だがそれらを外へ出さなければ、行き場のないエネルギーが自分の中にどんどん溜まっていってしまうから、僕はそれを絵に叩きつけるのだ。絵に限らず、"芸術"と呼ばれる作品はそのようにして生み出されているのではないかと僕は思う。絵に興味を持ってからはしばしば足を運ぶようになった様々な展覧会で、激しいエネルギーの捌け口になったと思しき作品を、僕は数多く見てきた。
 だが、松野さんと一緒に絵を描いていた頃の僕は、そんな難しいことを考えてはいなかった。ただ松野さんと2人で絵を描くことが、どうしようもなく楽しかった。
 思えば、今までの僕の人生の中で最も楽しかった時期が、あの頃だったのかもしれない。松野さん以外の美術部員が帰る時間までは文芸部の部室で暇をつぶし、校舎に人気がなくなってから、美術室で松野さんと一緒に絵を描いた。それまでは何に対しても楽しさを見出せなかった"抜け殻のような人間"だった僕が、人に恋することを楽しみ、そして絵を描くことも楽しいと思うようになっていた。そんな自分に最初は戸惑いもしたが、やがて自分の変化を受け入れられるように なっていた。これからもそんな楽しい日々が続いていくのだと、当たり前のように信じていた。
 しかし、悲しいことには必ず終わりがあるように、楽しいこともいつか必ず終わる。
 彼女が家庭の都合で海外へ引っ越すことを知ったのは、2年生の3学期も終わりに近い、春の足元が聞こえ始めてきた頃だった。


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