Heartful Canvas(後)


「高原君、私ね、海外に引っ越すんだ」
 それはまったく突然の告白だった。
 いつもと同じように、2人で美術室に篭もって絵を描いている最中、松野さんが独り言を言うようにぽつりと呟いたのだ。あまりにも突然のことだったので、僕は彼女が言ったことの意味を理解できず、間の抜けた声で「え?」と聞き返した。
「引っ越すの。海外に」
 声の調子を変えずに、松野さんは言った。まるで仮面が張り付いたかのような無表情だった。冗談だと思いたかったが、今まで一度も見せたことのない彼女の表情が、冗談などではないことを告げている。
「…いつ?」
 僕はやっとのことで、それだけの言葉を搾り出した。自分でも驚くほどに乾いた声だった。
「一週間後」
「ずいぶん急なんだね」
「ごめん。言い出せなかったの」
 そこで初めて彼女の表情にさっと陰が落ちた。辛そうに目を伏せる松野さんを、僕は責めなかった。責められるはずもなかった。松野さんと同じ立場だったら、僕だってきっと言い出せないに決まっている。どうして彼女を責めることができるだろう。
「…そう」
 僕はそう言ったきり、黙り込んだ。松野さんもその日はそれ以上口を開かなかった。
 松野さんは僕の恩人と言っても良かった。退屈で仕方のなかった僕の毎日を"恋"と"絵"という彩りで飾ってくれた恩人であり、同時に大切な友達だった。最初は彼女と一緒にいられることにつられて始めた絵も、その頃には僕の生活の大部分を占めるようになっていたし、美術室の入り口から眺めていただけの恋も、手の届くところにまでやってきていた。
 それまでは色彩も何もない、モノクロだった僕の世界に、彩りを加えてくれた松野さんがいなくなったら、僕はどうなるのだろう。今もなお僕の心の中に色鮮やかな絵を描き続けてくれている松野さんがいなくなったら、僕はどうなるのだろう。
 きっと松野さんと出会う前の、彩りのない灰色の世界が戻ってくる。
 しかしそれは、僕にはどうしようもないことだった。
 僕が「嫌だ、行かないでくれ」と言ったところで、松野さんが外国へ引っ越すことを変えられるわけでもない。僕にできるのは、彼女が目の前からいなくなってしまう前に、1年以上胸の中に溜め込んできた気持ちを伝えることくらいだ。
 それでも僕は、松野さんに自分の気持ちを伝えることはできなかった。
 僕は気付いていた。松野さんから引越しのことを伝えられた瞬間から、彼女と出会う前の"抜け殻のような僕"が、文芸部の部室でただ何となく日々を送るだけの僕が、再び僕を支配し始めていたことに。その僕が言うのだ。「ここで気持ちを伝えたところで、一体何になるっていうんだ。どうせもうずっと会えないんだ。向こうだって僕のことなんか、すぐ忘れるに決まってる」と。そして僕は、その声に抵抗する気力がなかった。
 松野さんから見て、僕の態度は目に見えて変わっていただろう。それでも彼女は、ずっと僕に笑顔を向けていてくれた。最後に教室で目が合った瞬間まで、彼女は笑っていてくれたのだ。
 あの時の少し寂しそうな彼女の目を、僕は一生忘れないと思う。


 僕はもう一度、小学生がふざけて描いたような肖像画に視線を落とした。
 絵の中の彼女の、左目の部分が少しだけ滲んでいる。
 まるで絵の松野さんが目に涙を浮かべているようだが、だとすれば彼女は十数年もの間、目に涙を溜めてそこにいるのだということになる。
 僕に何か伝えたいことがあるのかい、松野さん。
 松野さんとは似ても似つかない松野さんに、僕は心の中で呼びかけた。
 絵の中の彼女が、少しだけ笑ったように見えた。


 松野さんがいなくなって1ヵ月。僕はほとんど絵を描かなくなっていた。
 何度かキャンバスに向かったことはあった。だが、どうしても手が動かないのだ。松野さんがいる美術室ではあれだけスラスラと動いた手が、石となったかのようにその動きを止めてしまったのだ。
 松野さんのことを思い出したくない。思い出せばきっと辛い思いをする。
 心の奥底に秘められたそんな思いが、無意識の内に僕の手を止めていたのかもしれない。そうして僕は、次第に絵から遠ざかっていった。"抜け殻のような僕"に心が支配されていくのを。自分から受け入れていた。
 そんなある日のことだった。
 母親に「春休みの間に部屋を片付けろ」と言われた僕は、嫌々ながらも自分の部屋の整理をしていた。絵を描かなくなったので、他にすることといえば漫画を読むかゲームをするくらいしかない。それならば部屋の片付けでもしていた方が、よっぽど時間を有意義に使える。そう自分を強引に納得させ、何年ぶりになるか もわからない部屋の大掃除をしていた。
 その中で、松野さんからもらったスケッチブックを見つけたのだ。
 僕はスケッチブックを手に取り、ページをめくってみた。このスケッチブックを持ち歩くことは習慣となっていたので、どこへ行く時も鞄の中に入ってはいた。しかし松野さんから引越しのことを聞いて以来、このスケッチブックは一度も開いていない。彼女がいなくなってからは、持ち歩くことすらやめてしまった。
 彼女を思い出して辛くなるだけなので捨ててしまおうかという考えが頭を過ぎった時、僕が松野さんの肖像画を描いたページに、1枚の白い封筒が挟まっていることに気が付いた。
 僕はそれを手に取った。綺麗な字で「高原君へ」と書かれている。裏返すと同じ字で「松野桐子」とあった。どうも松野さんからの手紙らしい。
 いつの間にこんなものが挟まれていたのだろう。僕はハサミで封筒の端を切ると、その中から折りたたまれた便箋を取り出した。薄いピンクの、シンプルな便箋だ。
 松野さんの引越しを知るまでは毎日のようにこのスケッチブックを開いていたので、松野さんがスケッチブックの中に封筒を忍ばせたとなれば、それは引越しの話をしてからだろう。彼女は、僕が毎日このスケッチブックを持ち歩いていたことを知っていた。自分がいるところで読まれたくなかったのか、それとも周囲から好奇の目で見られることを嫌ったのか。ともかく、彼女は僕に気付かれないよう、スケッチブックの中にそっとこの手紙をさし込んでおいたのだ。
 僕は便箋を開き、書かれた文章を読み始めた。

『高原君へ
 まず最初に、こんな手段であなたに手紙を渡してしまったことを謝らせて下さい。本当は直接渡すことができれば良かったのだけど、あまり人の目に触れたくなかったので、高原君がどこかへ行っている間に、いつも持ち歩いてくれているこのスケッチブックの中にはさんでおくという手段をとらせてもらいました。ごめんなさい。
 あなたがこれを読んでいるのはいつでしょうか。私が学校を後にする、最後の日にこの手紙を入れておく予定なのですが、すぐに気付いてくれるかもしれないし、1週間後、1ヵ月後、もしかしたら1年後、いえ、ずっと気付いてもらえないかもしれない。けれど、どうしても高原君に知っておいて欲しいことがあって、こうしてペンを取りました。実際に目を見てだと、絶対に言えなくなってしまうと思うから。
 知っておいて欲しいということは、他でもありません。
 私、高原君のことが好きでした。
 もちろん友達としてではなくて、1人の男の子としてという意味です。"でした"っていう言い方はおかしいよね。今だってずっと好きなんだから。高原君が私のことをどう思ってくれているかはわからないけれど、嫌われてなければいいな。
 最初は私も、一緒に絵を描いてくれる友達ができて嬉しい、くらいにしか思っていませんでした。けれど、どんどん上達していく高原君を見て、そして絵に向かう時の生き生きとした高原君の横顔を見て、だんだんあなたに惹かれている自分に気が付きました。いつの間にか、美術室で高原君と絵を描く時間が、私にとってかけがえのないものになっていました。できることなら、ずっと高原君と一緒に絵を描いていたかった。高校生になっても、大学生、社会人、おじいちゃんおばあちゃんになっても、2人で絵を描いていたかった。
 でもそんなことを言ったって私が引っ越すのは変わらない。そんなことを思ってしまったから、直接は言えなくなってしまったのかもしれません。いまさらそれを伝えたところで、一体何になるんだろうと、そんな気持ちがどこかにあるのでしょう。
 それでも、私は思います。いつかまた、きっと高原君に会えるって。
 それがいつになるかはわからないけれど、死に別れるわけじゃないんだもんね。ただ距離が離れてしまうだけで、同じ空の下で、同じ世界に生きてるんだもんね、いつかきっと会える。そう思うと、少し気持ちが楽になります。
 だからその日のために、私の気持ちを高原君に知っておいてもらいたかったんです。
 もしまた会うことができれば、その時は高原君の気持ちを聞かせてください。そしてもし高原君が私のことを嫌いでなければ、また一緒に絵を描いてください。私はその日を夢見て、あなたと同じ空の下で生きています。
 私のことを忘れないで、とは言いません。ただ、時々でいいので思い出してください。もちろん、嫌じゃなければ、だけどね。
 それじゃあ、バイバイ。またね。
松野桐子』

 手紙を読み終えた僕は、傘に水滴が落ちたような音ではっと我を取り戻した。下に目を向けると、腿の上に置かれたスケッチブックの、松野さんの肖像画の左目の部分に、水滴が落ちている。その水滴が自分の涙だと気付くのに、そう時間はかからなかった。
 松野さんが、僕のことを好きだったなんて。
 そしてそれを伝えても仕方がないと、僕と同じことを思っていたなんて。
 ただしそこから先は違っていた。僕は、松野さんとはもう二度と会えないと決め付けて、自分の気持ちを伝えることはしなかった。しかし松野さんは、きっとまた会えると信じ、自分の気持ちを僕に伝えてくれたのだ。こんな僕のことを、好きだと言ってくれたのだ。
 自分の情けなさに涙が出た。僕は生まれて初めて、心の底から泣いた。
 そしてその後、僕は彼女のために何ができるだろうと考えた。僕は彼女の気持ちに応えなければならない。彼女は僕と再会できる日がやってくることを信じ、自分の気持ちを伝えてくれたのだから、僕もその日のために何かをしなければならない。そうでなければ、僕に松野さんを好きでいられる資格はない。
 その答えは簡単に出た。
 ずっと絵を描き続けていくのだ。
 松野さんが再び僕と絵を描くことができるのを楽しみにしてくれているのであれば、僕もその日のために、絵を描くことを続けていく。そしてその日が来た時、今とは比較にならないほどに上達した絵を見せて、彼女に驚いてもらおう。
 気が付くと僕は、クローゼットの中でほこりをかぶっていた画材を引っ張り出し、散らかった部屋をそのままにして外へ出かけていた。
 僕の心の大部分を占めつつあった"抜け殻のような僕"は、いつの間にか姿を消していた。


 最初から画家になろうと思っていたわけではない。
 ただ、人生を決めるきっかけというものは、思わぬところに転がっているものだ。
 例えば僕の場合は、家の近くにある大きな公園で風景画を描いていた時、たまたま通りがかった男性が名の知れた画家で、その時描いていた絵が彼の目に留まった、といった風に。人生はいつどこで何が起こるかわからない。
 彼に画家としての道を薦められた僕は、美大に入って本格的に絵の勉強をし、また彼に弟子入りもした。その彼が、今の僕の師匠だ。
 師匠は大小様々な画廊のオーナーに顔が利き、行く先々で僕を紹介してくれた。その内の何人かは僕の絵を気に入ってくれて、個展やグループ展の話を持ちかけてくれた。僕が画家として活動することができているのは、ほとんどが師匠のおかげだ。いずれは1人でやっていかなければならない時が来るのだろうが、師匠は僕に、そのときの土台作りをさせてくれている。彼に出会うことができて、本当に良かったと思う。
 しかし、駆け出しの新人の絵が簡単に売れるほどこの世界は甘くない。師匠の助力によって画家業もどうにか軌道に乗り始めてはきたものの、やはりそれだけでは生活に不安が残る。ましてや、このご時勢だ。絵を買うなど、半分以上が金持ちの道楽である。僕のようにあまり絵の売れない画家は、他に何か仕事をしなければすぐに飢えてしまう。最近では、何かの資格を取得し、副業として画家を続けていこうかと思っているくらいだ。
 そのような考えが頭の中を過ぎるたびに、僕はあの時姿を消したはずの"抜け殻のような僕"の影を感じる。松野さんはまだ僕のことを覚えてくれているのだろうか。忘れられているのではないだろうか。僕はこのまま絵を描き続けていて大丈夫なのだろうか。不安が次々に僕を襲う。
 新鮮な気持ちをいつまでも持ち続けることは難しい。子供が大人になるにつれて夢を失っていくように、何かを始めた頃の期待と希望は、時が経つにつれて少しずつ薄れていく。それを失わずに持ち続けることは、誰にでもできることではない。
  僕は、松野さんとの再会を半分は諦めているのかもしれない。今では、気持ちを伝えようとするのが遅すぎたと思うようになっている。それでも絵を描くことをやめないのは、もう半分で松野さんとの再会を諦めきれないのと、僕自身も絵を描くことが好きだからという理由があるからだろう。
 そんな中での、人生3度目の個展だった。


 今回の個展の期間は2週間だった。
 その最終日、個展に駆けつけてくれた美大の友人を、会場である画廊の外で見送ると、僕は腕時計に視線を落とした。午後6時7分。この画廊の閉廊時間は午後7時なので、ぼちぼち片付けを始めてしまおうかなどと考えながら、僕は画廊の中へ戻った。
  個展のあんばいは、それほど悪くなかった。売れたのは3万円の絵が1点と、5千円の絵が3点。今までの展覧会でたったの1枚しか売れなかったことを考えれば、大躍進だと言えよう。聞くところによると、以前師匠の知り合いが買っていった僕の絵が、なかなか評判が良いらしい。自分の創り上げたものが評価されているということを聞くと、これからも画家としてどうにかやっていけるかもしれないなどと思う。我ながら現金なものだ。
 と、その時、画廊の入口の扉が開き、1人の女性が中へ入ってきた。
 こんな時間になってもまだ来る人がいるのか、と少々驚きながらも、僕は彼女を画廊の中へ迎え入れた。サングラスをかけているので顔はよくわからないが、歳は僕と同じくらいだろうか。3月のこんな時間にサングラスをかけて外を歩くのは危険だと思うが、人の趣味に文句をつけるつもりはない。
「作家さんですか?」と彼女は言う。
「はい。高原と申します」
 僕が名乗ると、彼女は軽く会釈をし、壁に掛けられた絵に目を向けた。
「綺麗な絵ですね」
 彼女の視線は、1枚の絵に向けられていた。それは他でもない、松野さんの肖像画だった。肖像画といっても、本人を前にして描いたものではなく、記憶を呼び起こしながら描いたものだ。そのため細かい箇所が正確に描けているかどうかの自信はないが、全体的な雰囲気としては、僕の記憶の中に残る松野さんがそれなりに表現できたと思う。
 僕が描くのは、基本的に風景画だ。人物画はあまり描かない。だから今回の展覧会のように風景画ばかりのところへぽつりと1枚、人物画を置いておくと、見に来る人々は皆、興味を示す。なぜ置いてあるのかと問われれば、"置いておきたい"としか答えようがない。僕の恩人を描いたこの絵を置くことは、僕のポリシーのようなものだ。
「この女の子は?」
「僕に絵を描くことを教えてくれた、大切な人ですよ。もう10年以上も前に、海外へ行ってしまったんですが。今でもずっと変わらず、大切な人です」
「恋人だったんですか?」
「いえ。できればなりたかったですけどね」
 そう言って僕は、頭を掻いた。顔が少し赤くなっているかもしれない。
「僕が自分の気持ちを伝えられない内に、行ってしまったんです。まあそうでなくとも、僕が彼女に"好きだ"と言えたかどうか、わかりませんけれども。ともかく、今となってはもう遅すぎるだろうけれど、僕はこうして絵を描き続けて、いつか彼女に僕の気持ちを知ってもらう日が来ることを待っているわけです」
 何も知らない客にこんなことを言っても、意味が分かるはずもない。ただ僕は、誰かに話したかった。松野さんに自分の気持ちを伝えるために今も絵を描いているのだということを誰かに話すことで、自分の気持ちを再確認したかった。そうすることで、隙あらば僕を乗っ取ろうとしている"抜け殻のような僕"に抵抗していた。今度こそ、何もせずに受け入れるようなことはしない。
 恐らく僕は、これからもずっと絵を描いていくだろう。
 松野さんとの再会のためという理由もある。しかしそれ以上に、僕は絵を描くことが好きだ。何よりも好きだ。そうなるきっかけをくれたのが、他ならぬ松野さんなのだ。
 彼女がいなければ、僕は絵を描くことはなかっただろう。彼女に出会わなければ今頃どうしていたかなど、僕にはわからない。わかっているのは、僕は今こうして、松野さんが与えてくれた"絵"という彩りで、自分の心に自分自身で少しずつ色を塗り続けているということだけだ。少しずつだが確実に、"抜け殻のような僕"に負けないように。
 それは松野さんがくれた贈り物だ。彼女がくれた"絵"という贈り物をずっと胸に抱き続けることで、僕はずっと松野さんと繋がっていられる。心のキャンバスに、2人で絵を描き続けていける、そんな気がしていた。
 だから僕はこれからも絵を描き続けていくのだ。
 会えなくても構わない。どんな場所にいても、僕と松野さんは絵で繋がっているのだから。

「すみません、変な話をしてしまって。どうぞごゆっくりご覧になってください」
 僕はそう言おうとしたが、途中で言葉を止めた。目の前の女性が、サングラスを外していたからだ。
 いや、それだけなら良い。問題は彼女の目だ。僕はその目に見覚えがあった。そう、彼女の目は、今まさに彼女が見つめている、僕が描いた松野さんの肖像画の目にそっくりなのだ。そんな僕の視線に気づいたのか、彼女はサングラスを外した目で僕を見て、にっこりと笑った。
 どうして彼女が絵の感想を言った時に気付かなかったのだろう。「綺麗な絵ですね」という言葉は、僕が初めて松野さんの絵を見せてもらった時に言ったのと同じ言葉ではないか。
 呆然とする僕の目の前で、形の良い彼女の唇が静かに開いた。
「今からでも、遅くないですよ」
 懐かしそうに目を細めて、松野さんは言った。

 ―終―


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